お食事処ながとも

営業時間 平日:(昼)10:00-15:00 (夜)17:00-22:00  土日:10:00-22:00

お食事処ながとも誕生秘話(岩次郎物語)

岩次郎物語について

創業大正10年お食事処ながとも創業者の岩次郎物語。

その昔、日向市の街には、食堂と言えば「長友うどん」1軒しかなく、市街や入郷からくると「長友うどんを食べて帰るのが楽しみだった」と、人々に語り継がれるほどの大人気でした。

創業者、長友岩次郎は、苦労の末、不思議な縁で、あるうどん屋の弟子となり、そこでうどん作りの極意を身につけた岩次郎は、大正10年に自分の店「長友うどん」を創業したのでした。

その職人の心は代々受け継がれ、伝統の味を守りながら、さらなる向上を目指しています。

うどんとの出会い

長友うどんの創業者長友岩次郎は、明治十八年四月二十八日に、宮崎市に生を受けた。大人になった岩次郎は大淀の方で青果や海産物を営んでいたのだが、仲間が倒産し、保証倒れをしてしまった。ある年の師走のことである。

途方に暮れていた岩次郎であったが、当時、妻トクとの間に二男一女を設けており、この家族を養わねばならなかった。岩次郎は一念発起し、なんとしても一旗あげようと、妻と三人の子供を里に残し、我が身を振り返る間もなく、東京行きの「高千穂号」に乗ったのである。

高千穂号に乗った岩次郎が外の景色を眺めていると、車掌が切符の確認にやってきた。財布を出して切符を買おうとしたところ、あまりにも慌てふためいて家を出てきたため、汽車賃や当分の生活費を持って出るのを忘れてしまっていた。

有り金全部叩いても、東京へ行くどころか、日向駅までがやっとであった。不本意にも日向駅で汽車を降ろされた岩次郎であったが、そこで急に腹が減ってきた。

するとどこからともなく、いりこだしのいい香りが「ぷ~ん」と漂ってきて、岩次郎はその店に吸い込まれるように入って行った。気が付くと、岩次郎は何杯食べたのか思い出せないくらい、夢中になってうどんを食べていた。

うどん屋を始めたきっかけ

しかし岩次郎には、うどん代を払うお金が一円もなかったため、うどん屋の老夫婦になんべんも、なんべんも、なんべんも謝った。あまりにも必死な岩次郎の姿に、この男は食い逃げをしようとうどんを食べたのではないと、岩次郎の誠意を感じ取った老夫婦は、「そんなに悪いことしたと思うならうちで働いてみないか。」と優しく声をかけた。

それから岩次郎は、日向駅を下りたとき、「ぷ~ん」と漂っていたいりこだしの香りと、うどんの味に心底惚れ込み、この老夫婦のもとで働くことを強く決意したのである。うどん屋の老夫婦のもとで働き始めた岩次郎は、脇目もふらず一生懸命働いた。どうしたらこの老夫婦に恩返しができるだろう…来る日も来る日も思い悩み、自問自答する毎日であった。

そうこうしているうちに、岩次郎がうどん屋の老夫婦の主人である中村勘一を手伝うようになって、三年が過ぎた。そして勘一は、いつものようにゆで釜いっぱいにお湯を沸かすため、かまどに薪をくべようと、薪を両手に持てるだけ持って、かまどのそばへ歩いて行った。

しかしながら、78歳の高齢であったため、足元がおぼつかなくなり、とうとう薪の重さでよろけ、つまづき、大けがを負ってしまった。どんなときでも弱音をはかない勘一であったが、今度ばかりは体の自由がきかず、岩次郎を頼るしかなかった。岩次郎にとっては千載一遇のチャンスが巡ってきたのである。岩次郎34歳の春であった。

うどん作りの苦悩

岩次郎は、今まで勘一のうどん作りを3年間ずっと見てきていたので、勘一と同じうどんを作る自信はあった。

勘一がやっていたとおりに粉に塩水を混ぜ、熟成させ、足で30回うどんを踏んで押しをかけた。ところが、勘一と全く同じ要領でうどんを作っているのに、勘一の作るうどんの味が出せない。

岩次郎は夜も寝ないでうどんのことばかり考えた。自分の作るうどんのどこが、勘一の作るうどんと違うのだろうと…なぜだろう…なぜだろう…粉、水量、塩水の塩度、押し、熟成…すべて教えられたとおりに作っているのに、恩師勘一と同じうどんにならない。

なぜ、自分の作るうどんはこんなに粘りが足りないのだろう…一体何が原因なのだろう…岩次郎は考えすぎて、夜が明けてしまうこともあるほど悩んだ。

ある日、いつものように薪をかまどにくべ、鍋いっぱいに水を張りお湯を沸かした。お湯になるまで相当な時間がかかるのでお湯が沸騰するまでは、かまどの前で椅子に腰明け、薪をくべながら休憩を取る。これが一日のうちにとれる岩次郎の唯一の休憩でもあった。

ところが、恩師勘一がやっているように、岩次郎がかまどの前で椅子に腰かけ、薪をくべようとした瞬間、椅子の足が折れて、椅子が壊れ、岩次郎は横転してしまった。

なぜ椅子が壊れてしまったのか、椅子をよくよく見て調べたところ、特別古いわけでもない、止めの釘が外れたり緩んだりしているわけでもなかった。

美味しいうどん作りへ

恩師勘一が毎日座っても壊れなかった椅子が、岩次郎が座り始めたら、壊れたのである。岩次郎は考え込んでしまった。岩次郎は、自分が座って椅子が壊れたことと、恩師勘一が作るうどんのおいしさとの間に何か秘訣があるのではないかと・・・かまどに薪をくべながら悶々と考え続けたのである。あっ!そうか!うどんを30回踏んで押しをかける・・・そしてとうとう気付いたのである。

勘一の体重が55キロ、岩次郎の体重が95キロ、この40キロの差がうどんの味に違いをもたらせているのではないかと思ったのである。岩次郎は、自分の体重と勘一の体重の差が40キロもある。そうであれば、当然「押し」の数も減らさなければならないと考えたのである。

岩次郎は、30回の「押し」を18回にしていいかと勘一に相談してみた。勘一はよく気が付いたと岩次郎をほめてくれた。さっそく次の日から30回の押しを18回に減らしてやってみた。すると、岩次郎が今まで作ったことのない、のびのびした、のど越しのよいうどんが出来上がった。

これだったのか…岩次郎は、ようやく「押し」の違いであったことを確信した。うどん粉は押しが強すぎると、うどんのうまみ(グルテン)が破壊されてしまい、うまみが飛んでしまうのである。このことは、当時(大正時代)理解されていなかった。

うどんは、とても繊細な食べ物で、粉、水量、塩水度数、押し、熟成の5項目が全て揃わないと、うどん本来のうまさを引き出すことはできないのである。岩次郎は改めてうどん作りの奥深さを感じたのである。

大正10年長友うどん創業

押しを変えてからのうどんは、ふんわりとしていて、そのうえもちもち感にあふれ、あっという間に日向、入郷の人々に愛されるうどんになった。

日向の人々は、「十五夜祭りだ」、「七夕祭りだ」、と大きな祭りで日向の街に出てきたとき、「長友うどん」・・・

「日向の街に出てきたら、長友うどんを食べて帰らんと、日向に出てきた気持ちがしない」と、日向、入郷の人々の語り草となり、草木もなびく

長友うどんへと成長し、店は連日大盛況となったのである。